「新しくつくったり」「これまであったものを壊したり」することで、1から考え直したり、文脈(建築家の言うコンテクスト)を読み込んで再構築する、といった方法で地域はイノベイト、リノベイトされてきたが、これらは、「物事が行き詰まった時は初心に帰れ」という「日本人の模範的思考」が悪影響を及ぼしているように思える。
初心に帰ることは重要だが、これが行き過ぎて、今までの蓄積を否定したり、人でいえば「過去の自分と決別する」的なことがあるのではないだろうか。
東大の某先生が言っていたのだが、「失恋したときに観光っておかしい。失恋したら旅だ。」と言っていた。
確かに、観光って、軽くて浅くておちゃらけたイメージがある(あぁ、言葉が悪い)のだが、「旅」はもっともっと深い。「人生は旅だ」とかいうくらいのもので、「旅」には哲学や物語がある(ように聞こえる。だいたい、かっこいい。)。
これまでのいわゆる「観光」は、まさにバブル経済的であり、余暇があり、金があり、パーっと派手に騒いでストレス解消!といったもの(あぁ、言葉が悪い)であったが、しかし、いわゆるオルタナティブ・ツーリズムや、グリーンツーリズム、前の記事で触れたような『あるがままでいいじゃん観光』は、より「旅」に近付いている、と感じる。
文化が成熟してきた現代では、「バブルな観光」は退屈極まりないのではないか。
・・・文章が締まらないけど、メモってことで。
今まで価値が認められてこなかった、公団住宅、工場、古い採石場なんかが、「観光地」として再認識されているのは面白い。
今までの観光地と大きく違うのは、限りなく「現状追認型」なこと。
高度経済成長期と違って無理に何かを誘致してくるんじゃなくて、「うちにもともとあるものも、結構いいじゃない」という発想。(※宮台真司のいう「終わりなき日常」ともリンクしている気がしている。)
背景には、
・(お金)お金がない、つくれない
・(もの)お金がなくて作れない、そもそもつくる場所もない。エコの時代。
・(ひと)江戸時代のように、技術や生活が安定し、既存の技術や文化を反芻し、使いこなすことができるようになってきた。
なんてことがあると思う。
これを突き詰めれば、「あるがままでいいじゃん」ということになるんじゃないか。
かつて開発と観光はセットだったが、この発想から生まれる観光は以下のようなものかもしれない。
○時間軸
・(現在観光)あるがままの生活を体験したり学んだりする観光
・(過去観光)過去の大規模開発などを懐かしんだり、批判的に学んだりする観光
○楽しみ方
・(客観的観光)その観光資源を尊重し、できるだけ影響を与えずに、外から観察する観光
・(主観的観光)中に入り込み、一部となって体験する観光
○その他
・(複眼的観光)1つの観光資源について、いくつもの見方、楽しみ方を提供する観光
こうした見方は、かつての観光学的視点を超えて、文化人類学的視点、社会学的視点がキーポイントになってきそうだ。
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PS
もっともっとざっくりといえば、「アンチ・バブル時代の観光」、高度経済成長とバブルへの「カウンターパンチ」のようなもの、かもしれない。
これから、首都高や、駅前のスプロール、満員電車、郊外の巨大ショッピングセンター、シャッター通りといったものが、「新しい価値」になるんじゃないかな、なんてね。
そういえば、JTBが、「昔のハワイ旅行」をパッケージ化したらしい。強行スケジュールで全行程添乗員付きだそうだ。これも、「バブルな過去」を懐かしんでいるのかもしれないな、と思う。
まじで。きつい。おわらん。
今週は、終電3回+完徹2回+日曜出勤。
なんというかね、来年はこうならないように、スケジュール組んで、アシスタントをうまく使って、むやみやたらと振ってくる仕事は丁重にお断りをしていきたいものですな。
・・・無理ですな。
そろそろ始発。
帰るべ。
今日は疲れた。
東急の深夜バスに乗車中。
これで帰るとたいてい、帰宅は2時になる。
満員で窮屈な車中は疲れた会社員(あー、おれです)や、遊んだ帰りっぽい人、酔っ払い、と様々だ。
深夜ラジオのようなぼそぼそした運転手の声と、昼間と変わらない車内アナウンス以外、声を発する人はいない。
みな、今日を振り返っているのか、明日のことを想っているのか。
いや、むしろ眠いのね。隣の女の子のイビキが響きはじめた。
まちづくりの現場で、情報共有ツールとしてニュースレターは欠かせない。
いまどき、ネットがあるのに紙媒体なんて、という話もあるが、ネットを見ない、見られない人の数は意外と多くて、地方に行けばなおさらである。
なんで欠かせないか、というと、仲間を増やすため、フェイドアウトしていく仲間を減らすためという目的に資するからである。
具体的は以下の2つだ
・こんなことをやっているんだよ、ということが公開されることで、新しい人とのつながりを生む。それが新しい動力源になる。
・様々な主体が入り込み、あるいは離れていくことが多いが、彼らとゆるやかなつながりを持続しておくことで、また参加の機会が生まれることがありえる。
某地域で、ニュースレターの発行を担当していて、はずせない大事なポイントに気づいた。
それは、「分かっているハズ」文章が悪循環を生むこと。
人は慣れてくると、「アレ」で通じてしまう。そうした人たちに囲まれていると、「アレ」で通じることに疑問を抱かなくなってしまう。
極端な話をすれば、「先日の大会ではご苦労様でした」といって、大会名を記載しなかったり、「毎年恒例のバスをご利用ください」といって、時刻表も、どこからどこまでのれるかも記載されていないこともある。意外に気づかないものだ。
こうなると、上に書いた2つの目的は果たせなくなる。ずっと参加している人だけに通じる、閉じられた情報になるからだ。
これを防ぐには、あかの他人に見せることが一番である。
あかの他人が読んで分からなければ、それは「分かっているハズ」文章になってしまっている。
盛岡の街は、歩いて周るのに丁度良い、という印象があるが、駅から中心街までは北上川を渡らなければいけないし、比較的駅に近い「啄木新婚の家」ですら、ちょっと離れていて、まして岩手の由来と云われる「鬼の手」など見ようとしたら、健脚な人でも歩くのは結構しんどい。
そうなると自転車が欲しい。駅前から借りられるとありがたい。ホテルでもいい。
連れ合いと来ると体力差があるから、1台は電動アシスト自転車が欲しい。もちろん、事前にそれが分かっていないといけない。
手持ちの地図も欲しい。自転車に乗りつつ、ちょっと止まってパッと開けるサイズ、風でバサバサとならない紙の厚さがいい。
地図には観光名所だけではなく、トイレの場所もさりげなく載っていて欲しい(トイレ専用マップなぞ広げたくはない)。
まして、盛岡は、公衆トイレの数が極端に少ないから必須。
僕は人の3倍は水を飲むからトイレも近いのだ。
街を巡っていると、あちこちに興味が沸く。
誰かに話しかけていろいろ聞けたらいいけど、そこまで外交的じゃないから、幾つかについては解説が設置されてあるといい。
話のきっかけにもしやすい。
自転車でずいぶん巡ったとして、疲れてきたら、自転車を近くで返却して、バスで駅付近までもどる。
泊まりのときは、自転車ごとバスに乗り込んで、明日また慣れた自転車で巡る。電動アシスト自転車のバッテリーは、ホテルで充電したい。これは有料でもかまわないが。
帰りの段、名残を惜しみつつ、本屋を見ていると、もっと盛岡のことを深く教えてくれる本に出会える。
結構、見ていなかったものもある。見てきたものも、視点を変えると、違った見方ができそうだ。
帰りの新幹線では、その本を読みながら、想像をめぐらせる。
上記は、私が盛岡に行くときの事を事例にした。だが、私以外にもこれを望ましいと思う人も多いだろう。
同様に、心身に障害がある方を事例にしたら、また新たな“気遣い”の必要性が見えてくるだろう。
「誰にも優しい」は一見難しいし、矛盾の塊のように思える。
誰にも、などと考えると、漠然としていて、あれは中高年にはいいが、若い人はこまるだろう、じゃあ、やらない方がいい、などと、マイナスのスパイラルに落ち込んでしまう。
しかし、ある特定の1人から考えるときはそうはならない。
Aさんに優しくするにはこうすればいいだろう。このことはBさんにも優しいかもしれない、もう少し工夫したらCさんにも優しくなるだろうか。
さらに、あれを考えると、DさんにもEさんにも優しいものになる……。
こうして、リアルな人を考えながら、徐々に地道に対象を拡大していくことこそが、「誰にも優しい街」の早道ではないだろうか。
ぼくは、仕事で某地域のNPO法人のお手伝いをしています。
このNPO法人は、母体が観光協会で、観光という枠にとらわれないで、もっと多角的な活動をしよう、ということで生まれました。
実際、活動は多角的で、観光案内や旅館の紹介、イベントの開催などの従来の取り組みに加えて、地域内の巡回バス運行や、料理などの新商品開発、商店街イベントの開催、地域の土地利用マスタープランづくり、外国人観光客へのサービス向上のための様々な取り組み、さらに、どぶさらいから、けんかの仲裁(笑)まで、なんでもです。
そこの代表的な立場の人にお昼を食べつつお話を伺うと、
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